あとは切れっ端のシーンをちゃんと繋いでいくことだぜ…!(それが難題)
更新した時に寝ぼけていたらしく、更新したことさえ忘れていました(実話)。
修正等かけましたのでこれで正式版になります。
まるで色の洪水だ。
きらきらと明るい店内で、色とりどりの衣服を見回しながらシモンは思う。知らない世界に迷い込んでしまったような気分に襲われて連れ合いを探せば、器用にこの洋服の森を歩き回っていた。道案内の店員を捕まえたニアは、にっこり笑ってシモンを手招きする。戸惑いながら近づけば、友人は左右の手にそれぞれ別の衣装を携えていた。
「ねえシモン、このお洋服とーっても似合うと思いませんか?」
言いながらニアはシモンの胸元へ服を押しつけ、店員が用意した姿見を隣に並んで覗き込む。映り込む自分の顔があまりにも場違いでシモンは顔を背けた。しかしニアは楽しげに笑みを深め、こちらもと更に新たな布地を試そうとする。まるで着せ替え人形のような有様になりながらシモンはもう一人の同行者を振り返った。だが、ロシウも少しばかり困ったような表情を浮かべるばかりでニアを止めようとはしない。
「もう少し色の明るいものをいただけませんか?」
為政者であるシモンやロシウよりもよほど堂に入った人の使い振りを示しながらニアは次々と衣類を、はたまたアクセサリをシモンの体で試した。慣れないことに疲労を重ね、しかし止めるにはあまりにもニアが楽しそうでシモンは黙ってされるがままになる。ニアの手は一歩引いた位置で待っていたロシウにも伸び、服と言えば新政府の制服が常の二人組を飾り立てることに余念がなかった。
「それでは、こちらとこちらをくださいな。
…シモン、ロシウ、着替えて来て下さいね!」
遂に吟味を終えたニアが二人分の衣服を差し出す。巻き毛の友人が会計を済ませている間にシモンとロシウは更衣室へ押し込まれた。柔らかな布地、温かな色合い、可愛らしい意匠。思わず苦笑しながら、けれどニアの期待には逆らえずシモンは着てきたものを脱ぎ捨てる。照明の中で、着古された布はニアから与えられたものと比べるとまるでボロ切れのようだった。
それでも本当にボロ切れでしかないはずの赤い布だけは手放すことが出来ずにシモンはそっと二の腕に巻き付ける。着込んだ上着の上から触れてその存在を確かめると、新しい服も幾らかは安心してまとっていられた。
「シモン、どうですか?」
更衣室のカーテンの隙間から花の浮かぶ瞳が覗き込んでくる。幸い素肌は見られずに済んだが驚いたのは確かだった。瞬間言葉を失うシモンには構わず、白魚の指が楽しそうに打ち合わされる。
「素敵です、シモン! とっても可愛い!」
歌うような賛辞にやはり苦笑して、シモンは古着を突っ込んだ鞄を手に取った。ブーツに足を通しながら、選んで貰った服が存外に動きやすいものであることに気づく。こちらの趣味も考慮してくれるその気の回しぶりと洋服屋へのこなれ方に些か驚いていると、隣の更衣室からロシウの小さな悲鳴が聞こえた。…どうやら下着姿をニアに覗かれたらしい。一緒に暮らしていれば風呂上がりの姿を見られることもあるというのに、余所でとなるとロシウの規範においては別問題のようだった。
着替えて店を出ればもう丸一日使ったような気分でいたのだが、存外長居したわけでもないらしい。まだ外は明るく、繁華街はごった返している。
「二人が行きたいところはないのですか?」
折角街へ来たのだからと胸の前で手を組むニアに、ロシウが控えめな応えを返した。
「あ…なら、僕は本屋へ」
日頃あれだけ文字に埋もれながら、それでも知識欲は衰えないらしい。そんなところは昔から変わらない、と思ったのはニアも同じだったようだ。くすくす笑いながらも赤い靴は軽やかに新たな目的地へと歩先を変える。
導かれるまま、先を行く二人の一歩後ろをついて歩こうとして、その進みづらさにシモンは知らず息を吐いていた。賑やかな雑踏にめまいがする。ゴミゴミしていて誰も彼もが急いでいた。一体これだけの人間がどこへ吸い込まれていくのだろう。
書類の上ではどれだけの人間がこの街に住んでいるのかを叩き込まれていた。だがそれは所詮紙に印字された数字に過ぎない。一人一人と数え初めてしまえばその全てを理解するのは無理な話だ。30万の意志が混在するという現実に脳が揺さぶられシモンは強烈な人酔いに襲われる。逃げ込むようにして彼女は本屋の入り口をくぐった。
いったいこの七年だけでどれだけの書物が出版されたのか。識字率の上昇を感じさせる書棚の林立に書類仕事を思い出させられてげんなりしたシモンは、入り口付近に飾られた本へ目が吸い寄せられた。ベストセラーと手書きのポップがつけられた絵本が平積みにされている。
カミナくん。
丸みを帯びた文字が綴る名に頬が歪んだ。笑っている、のにたぶん表情は近かろうが心に渦巻くものは朗らかさとはほど遠い。偶像崇拝の浸透ぶりに臓腑が冷え、シモンは胸を押さえた。普段ならそこにいるはずの相棒も、昨今の店内動物禁止の風潮のせいで家に待機している。温かな絵柄と優しい文体に彩られた本はシモンの心に影色の染みをつけた。
地上の象徴めいた空色の髪、燃える炎のような瞳。
英雄、解放者、総司令。今となっては幾つの名を持つのか解らない程の存在。
誰もがあの光に憧れる。
…まるで、信仰するかのように。
いや、その信仰を生み出しているのは自分たちだ。螺旋王を倒した男の名を借りて、やっと未熟な統治機構がその体を成している。
きっと、彼自身はそんなことを望んでなどいないというのに。
…ちぐはぐだ。
噛み合わないピースを無理矢理はめ込んだパズルのような様相。砂の楼閣。確かに繁栄を謳歌しているはずなのに足下は定まらない。
くらり、目眩を憶えてシモンは額を抑えた。それをどこから見つけたのか、本の森を抜けてニアが寄り添う。
「シモン? どうしたのですか?」
案じる声が聞こえたのか、書籍の袋を抱えたロシウも小走りにやってきた。大丈夫だからと二人に向けた表情は、むしろ友人達の眉間の皺を深める。
苛々した。自分の至らなさに。
なにをしているのだろうと自問し、けれど答えは出なかった。
「シモンさん、少し休憩しましょう」
柔らかく背を撫で、外へとロシウが促す。陽の傾きが見えてきた雑踏を誘われるままにくぐり抜ける三人の先陣を切っていたニアが街角の喫茶店を指さした。
「あそこのカフェはどうですか?
ほら、シモンの作った兄貴さんがとってもよく見えるの!」
戦勝記念公園へ続く大通りの一角。ちらほらと街頭にも灯が入り始めた路脇に小洒落たテーブルと椅子が並んでいた。どうですか、と尋ねながらも既に心に決めているらしいニアが軽い足取りで近づきウェイターを呼ぶ。席が取れたのだろう、無邪気に手を振る彼女の背後に赤い紅い夕焼けと巨大なシルエットが浮かび上がっていた。
公園の、いやシティの中心にそびえ立つ巨像。違う、虚像。威光を誇示する姿はまるでかつて王座に鎮座していた男のようだ。あるいは地下の狭い村、五十人しか済むことの許されなかった場所で崇められていた偽りの神。人の心をまとめ上げる装置。
それがカミナの姿をしていること、なにより己の手で生み出したことに嫌悪感が滲んだ。
耐えきれずに俯いたシモンの背中をロシウが柔らかく撫でる。
「さ、シモンさん」
紙袋を持つのとは逆の掌がシモンを導きニアの元へと連れた。丸みを帯びた可愛らしいテーブルについたニアは花散る瞳でメニューを物色している。実に楽しげな表情が遠く、眩しかった。シモンはエスプレッソ? 好みを知り尽くした言葉が呪文のように雪崩れ込み、考えることを放棄してシモンは頷く。友人の輪の中に入りながら居場所のない焦燥感に駆られた。
…今日の誘いに自分はまるで馴染めなかった。つまり、"普通の女の子"が楽しめるはずのことを楽しめない。
解っていたはずのことだ。
自分は女を辞めたのだから。
飲み物が並ぶテーブルの下でシモンは空の手を握りしめる。
辛くはなかった。悲しくはなかった。それなのに胸中へすきま風が入り込む。
「まあ、美味しそう」
笑みを含んだ声が注文の品の到来を告げた。のろのろと顔を上げたシモンの前にも黒い飲み物が饗される。指を伸ばそうとしてそれが震えていることを理解した彼女は、もう一度腕を下ろしてもう片方の手で押さえつけた。
「……んだぁ? 揃ってんな」
遠かったはずの世界が声と同時に急速に展開する。弾かれるように顔を上げたシモンの隣に、居ないはずの男が立っていた。戦勝公園に近いここは議事堂にもほど近い。抜け出してでも来たのか、総司令が、カミナが、呑気に頭を掻いていた。
「兄貴さん!」
ニアが嬉しそうに呼ぶ隣で、一瞬あっけにとられた顔をしたロシウが眉を寄せる。
「カミナさ……総司令! また」
小言が続くのを予知したカミナが片手で黒髪の補佐官を制した。その隙に気を利かせた店員がメニューともう一つの椅子を持ってくる。当然のようにシモンの隣へ腰を下ろしたカミナは、よくわかんねぇなと呟いてメニューを睨み付けた。一緒に覗き込んだニアがこれはどうですか、あれはいかがと口を挟む。
カミナの正面で額を抑えていたロシウはふと気づいてシモンを見つめた。その視線に気づいたシモンの肩が揺れ、ぎこちない笑顔を作る。ますますロシウの眉間の皺が深くなることにまでは気が回らなかった。
心の軋みを遮るかのようにガンフォンの着信音が鳴り響く。瞬いたロシウは己のものだと気づくとすぐに席を立った。常の所作でガンフォンを構えた彼女は、耳に雪崩れ込んだ音に思わず片目をつぶる。だがその瞳はすぐさま円く見開かれた。足早に席へと戻ってきたロシウは、腰も下ろさぬままテーブルへ手をつく。
「どうしたのですか、ロシウ?」
いつもの彼女らしくない慌てた表情にニアが頬へ指を当てながら小首を傾げた。そのふわふわした応対とは対照的に、ロシウは些か頬を引きつらせてすらいる。
「キ、キヨウさんが。出産予定日、来週だったんですが早まったようで…ダヤッカさんとキタンさんが早引けしたと連絡が」
「え」
シモンもそれまでの空気を霧散させてぽかんと口を開く。ぽん、と手を叩いたニアの巻き毛が揺れた。
「まあ! おめでた、ですね!」
カミナもカミナでそいつぁめでてぇと一人乾杯するようにグラスを持ち上げる。ロシウは急いた様子で荷物を肩に掛けた。
「キノンを帰らせてあげないといけませんし、現場が混乱しているようなので僕は議事堂へ行ってきます」
早口に告げ、ロシウは括った黒髪を翻らせる。その一瞬シモンを映した瞳は心懸かりを残していたが、重鎮二人が欠けたとあっては補佐官が居ないわけにもいかない。
「私は病院へ向かいます!」
キラキラした笑顔のニアもカップを手放した。彼女はレイテの初産にも立ち会っている。元ダイグレン救護室在中者にとっては古い友人の出産となれば思い入れもひとしおなのだろう。たおやかな手が伝票へと伸びた。几帳面なロシウがそれを忘れていたとは相当焦っていた証拠だろう。
だが、ニアよりもカミナがそれを奪い取る方が早かった。
「おう、茶ぐれぇ奢ってやっから行ってこい!」
追い払うようにひらひらと紙を振られ、ニアは丁寧な一礼を残して踵を返す。追いかけようと腰を浮かせかけたシモンは、席を離れられずに狼狽した。椅子の横に垂らしていた腕が武骨な手に掴まれている。振り払うことはできず、しかし受け入れがたく、引き裂かれた心情に従って脚から力が抜けた。椅子に残ったシモンを見て取ってカミナが大きく頷く。
「……なにか、用?」
揺れないよう押し込めた声は、諦め混じりに聞こえた。気ぶっせいな音質にカミナの眉が寄る。
「用がねぇなら妹分といちゃなんねぇってか?
じゃ、散歩でもなんでもしようじゃねえか」
各自の注文は片づけ終わっていた。テーブルで会計を済ませたカミナが立ち上がり、肩を引いてついてくるよう促す。どうにか目線から逃れようとするシモンの口から言い訳めいた非難が落ちた。
「仕事。どうしたんだよ」
痛いところを突かれた風にカミナの表情が渋くなる。一応今日の分は終わらせたと、聞こえるかどうか危うい報告が続いた。それでもシモンを放すつもりのないカミナは喫茶店前の道を進み、公園へと入り込む。規則正しく並べられた街頭が二人の足下に曖昧な影を生んだ。
「どっこもかしこも明るくなっちまって、なぁ?
ちっこい星なんざァ見えたもんじゃないな」
昔からそうだったように天を見上げ、カミナは苦笑混じりにひとりごちる。それが急速に発達した文明への批判に聞こえてシモンは目元を歪めた。心を落ち着けようと上着の上から腕に巻いた布に触れようとしても、手はカミナに奪われている。すぐ傍にカミナがいるというのに過去の残滓に縋り付かなければならない己へ自嘲が浮かんだ。
結局、自分が欲しかったものは地上世界ではなく、30万都市などではなく、ただ。
「……兄貴。どうして、ヨーコと別れたの」
臓腑の奥から引きずり出された言葉がシモンの歩みを止める。長い前髪が彼女の瞳を覆い隠した。
「っぶ、おっ前今更もいいとこだな!」
軽快に振り返ったカミナは笑いながら藍色の頭をガシガシと撫でる。地下の村でそうしていたのと同じように。
「俺とあいつじゃぁ進む道が違う。そう気づいたからだ」
まるで痛みを感じていない口調だった。それが運命だったのだと言わんばかりに、カミナの台詞に迷いはない。だからこそ、決意してしまえば別れも厭わない。
……その決意をさせない為にカミナが嫌う理屈をこね回して鎖をつけて、人身御供にしたのがこの都市だった。暗澹たる気分がシモンの唇から澱を吐き出させる。
「"俺"も、兄貴と一緒に居る意味は無いんじゃないかって……思うよ。
むしろ兄貴の望みに対する壁になってる。
昔の村長みたいにね」
細い手首が僅かに力の抜けたカミナの手から抜け出す。兄貴分の体温を惜しむように手首を撫でながら、シモンは悲しいと単純に断言できないような笑みになった。
「俺はね、ずっと兄貴のドリルでいたかった。
地下から天井へ掘り抜いて、ダイガンザンを奪い取って。
兄貴を、それからニアをテッペリンへ送り届ける」
夜風がシモンの髪を揺らす。葉擦れの音の中、薄暗い公園で彼女は極控えめな笑顔を滲ませた。
「そういう存在でいたかった。
だけど」
ひゅ、と僅かに息を呑んだシモンは、柔らかな表情のままに続ける。論う言葉は、事実確認のように淡々としていた。報告書を読み上げるのとなんら変わらない。
「きっと、今の俺は兄貴にとって重荷でしかない」
な、とシモンの言葉を否定しようと身体を寄せたカミナは、だが物理的距離ほどには心理的な距離を近づけることが出来なかった。カミナに両肩を掴まれ今にも抱き寄せられそうになりながらも拒み、シモンは唇を動かす。
「兄貴が一度決めたことを放り出せない人間だって俺は知ってる。
それを利用して、俺達は兄貴を英雄として総司令として祭り上げてる。
でもそれは兄貴にとって重荷なんじゃないか?
兄貴はもっと広い世界に踏み出したいんじゃないか?
その手で世界に触れたいんじゃないか?
……親父さんがそうしようとしたように」
個人の願い。それはこの七年間の繁栄の中で無視されてきたものの一つだ。代替品として個人の欲求が物理的な意味で満たされていく。
こつん、とシモンのブーツが舗装路を歩いた。カミナを僅かに追い越した彼女は円らで灰色で地下世界でも一目置かれた選択眼を以てカミナの朱い目を見射抜く。
「……この七年間、兄貴が"生きてる!"と実感できたことって、ある?」
夜影の中では黒と映る瞳の中、映り込んだ兄貴分の姿は歯ぎしりし、そして殊更派手に両腕を広げた。階級を示す服が空気を孕む。
「そりゃお前、お前とロシウが無事だって聞いた時に決まってんだろ!」
言葉の勢いのまま、カミナは敷石の一つを蹴飛ばす。テッペリン戦の後、ロシウの傷も酷く、シモンに至っては再起不能との報が流れた程だった。勝ったからといってすぐライフラインが整備できるはずもない。どうにかグレンとラガンは回収したものの大グレン団のダメージもは半端ではなく、仲間の命と明日を食いつなぐので精一杯だった。
「…俺も"生きている"ことを如実に感じていたのはあの時が最後だったよ、兄貴」
懐かしい色でシモンの表情はほろりと解ける。けれどカミナがそれに触れるより早く、シモンは距離を取ってしまっていた。
「……テッペリン攻防戦の最後、俺は死んでいたんだ」
自分自身を抱きしめながら、けれど歌う調子でシモンは続ける。
「心音がとまり体内の物質伝達が途切れ酸素を失った脳は役目を終える。
そのはずだった」
最早夜の散歩という雰囲気は消し飛んでいる。首を撫でる風の生暖かさが不気味さを助長した。シモンは微塵も躊躇わず、今日揃えたばかりの衣服の前を一気に開いた。自分には似合わないと呟いていた、その通りに。
「そのはずだったんだ」
布に抱き留められながらもシモンは隠されていた皮膚を晒す。生きているとしか思えないなめらかで白い肌。呼吸に上下する胸。息を呑むカミナを置いて、シモンの講釈は続いた。
「けれどロシウが、リーロンが、(……ロージェノムが)、テッペリンに残された技術で俺を活かすことができないかと……考えた。
そして実際あったんだ。機械と生物を繋ぐ技術は。
肉体にガンメンに似たパーツを埋め込んで、脳からの電気信号で動く偽物の身体。
……生命倫理に反していようと、俺は生き延びて兄貴の役に立ちたい。
そう思った。そう願った」
これまで拾ってきた命は確かにその後カミナの手助けをするために消費されてきた。ならばこの機械の身体もまた同じ運命をになうだろうとシモンは疑いもしなかった、のだ。
シモンが触れる人工皮膚の下ではカミナなどでは壊すのがオチの精密機械が何十、何百と蠢いている。それがなければ生きられない、これが英雄に螺旋王が授けた呪い、或いは救いなのだ。
「この姿ならもっと兄貴の役に立てる。兄貴を楽にさせてあげられる。
そう思っていたけれど、兄貴はそんなこと望んじゃいないんだよね。
元より、総司令の椅子に座っていることが不満なんだから」
シモンはカミナを見ず、天に居座る月を見上げていた。なんとなく気に食わず隣に立ったカミナも月を見上げる。月は、昔見上げた時と同じように夜の暗黒へ光明をもたらしていた。
「…俺にぁ、さっぱり解んねぇぞ。シモン」
「…そうだね。全部俺の勝手な都合だから」
いきり立った回答には柔らかな応答が返る。
「俺は、兄貴の役に立ちたい。
兄貴の本当の夢を叶える一助になりたい。
でも、今のままではきっとそれは無理だ」
二人は、仲間達はどうしようもなく新政府という統治機構に取り込まれてしまっていた。急増の処理団体に、超越した技術レベルが与えられて現場は混乱している。どこもかしこのてんやわんやの状況を、お祭り状態とでも呼べばカミナは面白がるかも知れないが根本的な解決策にはなっていないし、方策はみつかっていない。
「……だから、兄貴がかつてからの夢を忘れてはいないのなら。
この地上を遍く旅したいというのなら。
───総司令、なんて地位は消してしまったっていい。
実質俺とロシウがいれば政府は回るんだもの」
甘い声が囁く。貴方の好きなようになさい、と。それが自分の幸せでもあるのだからと。
だがカミナには納得できない。そうまで言って自分に道を選ぶ自由を与えておきながら、シモンは全く自分の未来に展望を抱いていない。諦めきったその笑顔はジーハ村で彼女が毎日自身を誤魔化していたそれだった。そんな表情をさせるために地上につれてきたわけでは断じてない。
「シモン、お前はどうしたいんだよ!」
苛立つままにカミナは指を突きつける。かつて地上を指さしたように、シモンの胸を魂を指さす。
「俺? 俺は…政府を切り盛りして、カミナシティを安定させて」
模範解答にカミナは歯を打ち鳴らす。彼の妹分はこんなにもつまらない女ではなかったはずだ。一度決めたら絶対に折れない。そんな強い娘が、後ろを向いていていいはずがなかった。
「あるはずだろう! お前のその胸ン中! ずーっと抱えて、こればっかりは譲れねぇってのがよぅ!」
怒鳴り声にシモンの丸い目はカミナの顔と自分の胸を行ったり来たりする。戸惑う顔は幼く、まるで七年の月日を置き忘れてきたかのようだった。
「大事なのは、お前が心ん中に何抱えてて、何をするかだ」
変わらず、あまりにも変わらずカミナの瞳は真っ直ぐで穢れもなくシモンの姿を映し込む。惑い肩を寄せるシモンは酷く見窄らしく映っているようだった。
「おれはッ…もう、10年も、もうずっと、ずっと"そう"だったから…その為なら痛いのも苦しいのも辛いのも全部我慢できたから、だから…!」
ぎゅ、とシモンの両指が固く結ばれる。それを見たカミナが上から自分の掌を重ねた。
「おう、じゃあそりゃあ何だよ!」
逃げようとするのを許さずに、晴れ晴れとした笑顔で問いかける。
「なあシモン。
チミルフと戦った後に教えてくれるはずだった言葉、やっぱり俺に言ってねえだろう」
大きくシモンの身体が跳ねても、カミナの腕が肩に回っていては逃げ場は無かった。
シモンは一度逃げようと身をよじり、敵わないと知って大きく息を吸い込んで身体を硬直させ、何度も唇を囓って、眉間に浮いた皺を意味もなく揉んだ。
けれど彼女の反抗の全ては、魅力的な朱い瞳の前には意味を成さない。
す、と息を呑んだシモンは、仕方なく置き去りにされていた言葉を口に乗せた。
「俺は、カミナが好き、なんだ」
その場の温度が急速に下がっていく。シモン自身も指先から体温が染み出していくのを感じながら、それでも仕方なく繰り返す。
「カミナが好き。10年? ううん、15年前から。ずっと」
静かに壊れた堤防が瞳から涙を漏らした。袖口で乱暴に拭ったシモンは、言い捨てとばかりに駆け出そうとする。しかしここで逃がす程カミナも甲斐性無しではなかった。腕を伸ばし、娘の手を掴む。力で勝っているのを良いことに抱き寄せたカミナは、公序良俗の四文字を頭からスポンと忘れてシモンの唇を求める。動きの速さについていけていなかったシモンはされるがままにカミナの口づけを受け入れていた。
……同刻。ダヤッカとキヨウの第一子が誕生していたが、それが本当に因果関係を持っていたのかは解らない。前後して出産した妊婦は何人もいたからだ。そしてそれを議論することは空しい。
カミナに抱きしめられ、口づけられ、硬直していたシモンは頼り切っていたカミナの身体が離れると膝から地面に落ちた。腰が抜けたと言ってもいいだろう。潤んだ瞳がカミナを見上げ、次の言葉を待つ。自信に満ちた貌が頷き、少年のように笑った。シモンを立たせようと伸ばされた手が、───宙でふいに停止する。
続いて、カミナの喉をつんざいたのは絶叫だった。
「ァ゛、ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!」
いったい自分は何の罪を犯したのか。自責に襲われ頽れるシモンの前で、カミナは空色の頭髪を掻きむしる。その間にも元より肌を飾っている刺青を無視した光の線がカミナの肌を覆っていく。カミナの拒絶の声音を無視して、その浸食が規定値を超えたのかふっと現象がかき消える。カミナごと。
「……あに、き?」
呆然としたシモンはずるずると身体をひきずって周囲を見回す。だがカミナの残滓は無かった。いない。どこにも。急いで見渡しても人影さえ無かった。
代わりというようにありとあらゆるスピーカーが音をもたらす。同時に街頭テレビが、公用から個人用まで全てのモニターが朱い文様を纏ったカミナを映し出す。どのような技術なのか、全てのシステムの上位回線へ進入を果たしていた。
夕陽色だった双眸は今や血の色に染まり、人々がよく知るマントは朱から漆黒に変わり風にたなびいている。宵闇の中で浮かぶ姿を体中を血管のように飾るラインが照らし出していた。
「地上に存在する螺旋生命体が100万を超えたと計測。
螺旋力危険レベル2と判断。人類殲滅システムを発動」
意味を持ちながら判然としない言葉。しかしそれは酷く恐ろしく街の中へ響き渡った。総司令の人となりを知る者なら、あんな言葉を使うような人間ではないと気づけただろう。だが街の人間は「生のカミナ」、カミナという名の青年のことなど知らない。
殲滅という単語を聞き取った市民がざわめく。人々が理解しないまま、それは始まった。死神へと変じた男の背後から不可思議な物体が現れ輝きを放つ。それに触れた場所から熱と爆発を生むことを目の当たりにして市民は恐慌へと陥った。街は英雄自身から告げられた残酷な間引き方法に混乱のるつぼとなる。
半ば呆然としながらもシモンはコアドリルを握りしめた。
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