トドカナイイタミ

「ウマクイカナイ」と対ですかね。シモン側です。
三部はアンチスパイラル来襲までオマケレベルの短い話が続く感じになるような予感です。
状況と感情を説明しておかないとなーという筆者の都合です。盛り上がらず申し訳ない…

手櫛を当ててしまう仕草に苦笑し、それでも深呼吸までしてシモンは扉の前に立った。
脇にある認証装置に手を翳して扉を左右に割らせた彼女は白いブーツの足を部屋へ踏み込ませる。
面を被ったように平然と、いや冷然とした表情を浮かべた娘は腕に抱えた書類を示しながら広い室内を占拠するテーブルへと進んだ。
「総司令、お話が…」
やはり声にも抑揚はなく、実務然として情は滲まない。だが彼女は全てを言い切る前にその言葉を遮られた。
書面の束に囲まれ、テーブルに片肘をついた男が鬱陶しそうに片手でシモンを呼び寄せる。それでも一歩離れた位置から動こうとしない娘を眇め見て、カミナは憤慨する声音で言いつけた。
「兄貴って呼べよ」
穴蔵で何度繰り返されたか解らない言葉。七年の時を越え、彼は再びその呼称に固執するようになっていた。
切り込む紅の瞳から知らず視線を逸らしたシモンは口端を噛む。
どこか無邪気で純粋な、その変わらない部分が愛おしくて憎らしい。
素直に感情を表現することを封印した少女にとってカミナの繰り返しは死刑判決によく似た残酷で幸せな言葉だ。
「…補佐官は二人います。総司令。
　呼称の差異は混乱を招くでしょう」
軽く俯き紙束を確認する動作で心を押さえつけながらシモンは淡々と応じてみせる。実際、上部の人間が個人的な親しさを仕事中に見せつけるのは危険な行為であることを彼女は知っていた。地下暮らしをしていた頃、現場叩き上げで育ったシモンにとって周囲からの嫉妬や羨望がどれだけ危険な物なのかは身に染みている。
尤も、今や素直にカミナを兄貴と呼べないのはシモンの中で複雑な感情のパズルが組み上がっているからだった。
不機嫌な顔を隠そうともしないカミナは兄貴、という言葉が最早シモンの中でどれだけ重要なものになっているのかを知らない。
自分だけに許された呼び名。自分だけに与えられたカミナの中の居場所。近寄れないのに傍にある立ち位置。
カミナのために二度死に近づき、そして生き残ってしまったが故に高まる思慕を正直シモンは持て余していた。これを恋と呼んで良いのか解らない。
酷く強い執着心は、触れることを禁忌と感じるが故に彼を政府という籠の中へ閉じこめる。
総司令の名でカミナを縛り歪め、傍に居続けることを選んだ自分にはもうカミナの妹分である資格すらないのではないかとすら感じていた。
しかしそれでも、どんな手を使ってでも、カミナの横に立っていたい。
その為なら100万の猿もこの星も守って見せよう。例え三度目命を拾うことが出来ないとしても。
ふ、と息を吐いたシモンは前へ進み出、積まれた司令書の中に数枚を加える。その程度では変化が解らない程紙は山脈を成していた。こうしてじわじわと英雄カミナのカリスマ性を利用しシティから逃げる道を断つ。彼が自分の始めたことを途中で放り出すことが出来ないと知っているがこそ出来る方法だった。
「それでは総司令、明後日までにお願い致します」
一礼し、シモンは踵を返す。その土仕事など忘れた白い衣装の背中へ向けて、カミナは何かを言おうとして結局唇を尖らせた。
釈然としない、と顔に書いた青年に見送られシモンは総司令室を後にする。そして彼女は疲れ果てたように扉の隣へ背中を預けた。光を厭うように額へ手を置き、それでも顎を上げる。
見上げた先には、当たり前のように天井があった。
「…バカだな」
自重に塗れた表情を手慣れたように一瞬で納め、シモンは明るすぎる廊下を歩き出す。薄暗い研究室、彼女に見合う闇の世界へ向けて。